伝 義経首洗井戸
- 2015/09/25
- 17:59
伝 義経首洗井戸
所在地 : 神奈川県藤沢市藤沢2丁目
訪問日 : 2015年9月24日
壇ノ浦の戦いで平氏滅亡後、源義経は兄・頼朝と対立し、朝敵としても追われる立場になってしまった。
兄・頼朝との対立の理由としては様々あるが、大きな理由としては頼朝の内挙を得ずに朝廷から官位を得た事にあった。(『吾妻鏡』より)
源平合戦の最中である、元歴元年(1184)後白河法皇は義経を左衛門少尉、検非違使に任命した。
更に、壇ノ浦の戦い後、後白河法皇によってかつて平氏が軍事的支柱として独占していた院御厩司に補任された。
これは、まだ御家人達に官位を与える地位になかった頼朝にとっては、頼朝の存在を無視したものと捉えられた。
また、平氏の捕虜であった平時忠(「平家にあらずんば人にあらず」と発言した人物)の娘・蕨姫を娶った事は、義経が平氏の伝統的地位を継承しているとも捉えられた。
義経が自らの意思であろうと後白河法皇の意図として作為的だったとしても、どちらにしても頼朝としては容認出来ない事であった。
義経の兵略と声望が法皇の信用を高め、武士達の人心を集める事は、武家政権の確立を目指す頼朝にとって大きな脅威となっていった。
頼朝に許しを請う為に鎌倉へ向かった義経であったが、結局鎌倉へ入る事も頼朝の許しも得られなかった。
義経は頼朝を深く恨み「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言ったと言われる。
これによって頼朝と義経の亀裂は決定的なものとなってしまった。
頼朝は京に戻った義経に対して、かつて頼朝と対立した源義仲に従った源行家を追討するように命じた。
しかし、義経は自身が病気である事、行家が同じ源氏である事を理由に頼朝の命を断った。
文治元年(1185)義経を討つべく御家人を集めたが、なかなか名乗り出る者がいなかった中で土佐坊昌俊が義経討伐に名乗りを挙げた。
土佐坊昌俊は京の義経の館である六条室町亭を襲撃する(堀川夜討)が義経や後に加わった行家の軍勢の前に敗れ、家人らと共に六条河原で梟首された。
義経は襲撃を受けた翌日には後白河法皇から頼朝追討の院宣を受け挙兵の準備に入った。
しかし、頼朝が父・義朝供養の法要の為に家臣を集めていた事もあって義経に賛同する勢力は少なかった。
また、京都周辺の武士達も義経らに賛同せず、逆に敵対する者もまで現れた。
形勢不利と判断した後白河上皇は、逆に義経追討の院宣を出した事で義経は窮地に陥ってしまった。
西国九州で勢力を立て直すべく出発した義経一行だったが、途中で嵐に遭い九州西下は不可能となってしまった。
また、諸国にも行家・義経追討の院宣が下り、一層窮地に追い込まれた。
更に頼朝は、頼朝追討の宣旨作成者や義経派の公家を解官させ、諸国に守護・地頭を設置する事を認めさせた。(文治の勅許)
文治2年(1186)には源行家が討たれ、その後も義経の側近が次々と捕らえられ殺害されていった。
京都に居られなくなった義経は、文治3年(1187)山伏の姿に身を変え、伊勢・美濃を経て藤原秀衡を頼って奥州平泉へと赴いた。
頼朝の勢力が奥州へ及ぶ事を警戒した藤原秀衡は義経を将軍に擁立して頼朝に対抗しようとしていたが、文治3年(1187)病没した。
秀衡の跡を継いだ泰衡は、父・秀衡の遺言を守り義経を匿い続けた。
その中で義経は、京に戻り再起すべく策略を巡らせたが悉く頼朝によって阻まれた。
文治5年(1189)閏4月30日、泰衡は頼朝の再三の圧力に屈して500騎の軍勢で藤原基成の衣川館にいた義経を攻めた。(衣川の戦い)
無勢の義経は妻子と共に自刃しその生涯を終えた。(享年31歳)
義経の首級は美酒に浸され黒漆塗りの櫃に収められ、新田冠者高平を使者として43日間かけて鎌倉に送られた。
文治5年(1189)6月13日、和田義盛と梶原景時らによって首実検が腰越の浦で行われ、その後その首級は浜に捨てられた。
捨てられた首級は、潮に乗って境川を逆流し白旗神社の近くに漂着し、里人によって洗い清められて葬られたと語り伝えられている。

義経首洗井戸は住宅街の狭間の小さな公園内にある。
マンション等に囲まれて外からはわからないが、旧東海道沿いに案内の標柱があるので迷わずに辿り着ける。

「伝 義経首洗井戸」
義経の首級を洗い清めたとされる井戸。
井戸は石造りでしっかりした構造である事から、少なくとも側は後世によるものと思われる。

覗いてみたが、中は埋まってしまっていた。

「九郎判官源義経公之首塚」
実際の首塚は、現在の位置よりも北に約40mの場所にあったらしいが、今ではその正確な場所もわからなくなってしまっている。
義経首洗井戸から北方200〜300mの場所に鎮座する白旗神社。

白旗神社
御祭神 寒川此古命 源義経公
配 神 天照大神 大国主命 大山祇命 国狭槌命
由 緒 古くは相模一の宮の寒川比古命の御分霊を祀って、寒川神社とよばれていた。しかし、創立年代はくわしくはわからない。
鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治五年(一一八九)閏四月三十日奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害されたその首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は、腰越の宿に着き、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。
(神社説明文)
義経の霊が合祀されたのは宝治3年(1249)。
ちなみにこの鳥居は昭和59年製作の日本で初めてのグラスファイバー製(!?)との事。

鳥居正面の小高い丘の上に鎮座する本殿。
賽銭箱等には源氏の紋章である「笹竜胆」が見られる。

「源義経公鎮霊碑」
平成11年、義経公没後810年を記念して宮城県栗原郡栗駒町に葬られた「御骸」と、この地に葬られた「御首」の霊を合わせ祀る御鎮祭が行われ、鎮霊碑が建立された。
やはり源義経を祀った神社だけあって「義経◯◯」や「弁慶××」と名前のつくものが結構あった(笑)

「弁慶の力石」
元々は、神社にあった石占(いしうら)と呼ばれる特定の石を老若男女に関わらず願い事を唱えながら持ち上げ、重い・軽い等の感触によって願い事の成否・吉凶を占っていたという。
しかし、時代と共に娯楽や鍛錬の為の石となり、神社前にあった茶屋の前に置かれ、近郊農家や力自慢が訪れこの石を持ち上げて力比べをしたという。
今ではこの石を神石と呼び、この石に触れると健康になり病気をしないと言われている。


「義経藤」と「弁慶藤」
どういう由来でこういう名になったのか?、どうしてこの地にあるのか?説明はなかったが、義経を祀る神社らしい(笑)
種類が違うのか?蔓の伸び方が違うように感じた。

「弁慶松」
この松に関しても一切の説明は書いてなかった。
義経松もあるかと探してみたが、みつからなかった。
伝 源義経像

源義経と言えば、知名度も人気度も高い悲運のヒーロー。
事実、奥州で討死したにも関わらず、北海道逃亡説やチンギスハン説等が根強く残っている。
容姿端麗で絶世の美男子という触れ込みがあったが、これも義経ファンによる判官贔屓からの創作だったのだろう(笑)
自分に霊的な能力は一切ないが、義経首洗井戸は空気がピーンと引き締まった感じのパワースポット的な感じがした。
白旗神社も、義経の清潔感あるイメージ同様に、歴史感を損なわずにキレイな神社で非常に好感が持てた。
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